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2013.07.19

教育改革なくば21世紀は日本にとって最も悲惨な時代になる

明後日はいよいよ参議院議員選挙であるが、もはや私にとって、どこの政党が勝とうがほとんど興味がない。
強いて言えば、与党(自民党と公明党の連立与党)が勝って衆参のねじれが解消されれば、持ち株である日本株が上昇するか、という程度のものだ。
信念として棄権はしたくないので、期日前投票に行ったが、ほとんど入れたい政党がなかった。
なぜなら、どの政党が参議院議員選挙で勝っても、21世紀が日本にとって最も悲惨な時代になることは、もはや避けようがない事実だからだ。

国債が暴落する?財政が破綻する?
それも大きなことだろうが、もはやそんな問題ではない。
1990年代以降、ITが世界的に広まった情報時代において、高度成長期以降に日本人の受けてきた集団統制教育、日本人の持っている「出る杭は打たれる」メンタリティが、新しい時代にマッチしていないことが最も大きな問題で、それを改革しない限り、明治維新や第二次世界大戦後に見られた奇跡の経済復興もあり得ないからだ。
要は日本がガラガラポンしたとして、その後に奇跡の復興を遂げられるかどうかなのだ。
参考までに、7月16日付で、大前研一氏は「日本で政権交代がうまくいかない本当の理由(PRESIDENT 2013年7月29日号)」を書いている。
政治学者の土屋彰久氏が書いた「50回選挙をやっても自民党が負けない50の理由」という本と合わせて読めば、日本がガラガラポンすることを期待する私の真意が理解できると思う。

21世紀は、ビル・ゲイツ(William Henry Bill Gates III)やスティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs)のような飛び抜けた異才、要は「出る太い杭」を何本持っているかを国家間で争い、持っていない国は、札束で頬を叩いて他国から引き連れて来る時代だ。
それなのに、日本では未だに工業時代(20世紀後半)に有効だった年功序列(新卒至上)主義を貫いている企業が数多い。
他国や他企業から異才を連れてきて高給を払おうとすると、プロバーの社員の妬みが激しい企業も多いと聞く。
外資が大々的に日本に進出しようとしたときは、黒船と大騒ぎし、政府から経団連やマスコミに至るまで大騒動を繰り広げた。
外国人観光客を増やしたいと言っておきながら、銀行のATMも携帯電話も外国のものはほとんどシャットアウトだ。

今や世界に門戸を開いていろいろな人と交わり、アイデアを競い合わなければならないのに、日本のやっていることは全く逆なのだ。
そのアイデアも未だに工業時代の集団統制教育を施されている日本の子供から生まれることは想像し難い。
仮に、誰かがアイデアを出したとしても、「失敗したらどうする」の大合唱で集団リンチにかけ、当人を追い出してしまう始末だ。
日本製の(日本人の生み出した)ものが外国で花開き、称賛されているものは今でも数多くあると思うが、なぜ国内で最初にそうならなかったのか、良く考えてみるといい。
最初に花開くのが日本か外国かによって日本の経済事情は全く違ったものになっていたことだろう。

私の手元に東京大学名誉教授である上野千鶴子氏の著書、「サヨナラ、学校化社会の一節に「二十四時間、会社べったりで働いている人には、会社的価値しかないのです。」というものがある。
これこそが、1990年代以降、日本が世界の舞台から没落した最大の要因ではないかと私は感じている。
つまり、18年間の集団統制教育の後に、年功序列型企業で受けてきた「会社人間」としての価値観、それしか持ちえない人がトップになった日系企業、そこから情報時代の先端をいくビジネスモデルが生まれる余地はないと思うからだ。
一般的に霞が関の官僚が世間知らずとか揶揄されるが、7時から11時まで会社に縛られる民間サラリーマンも本質的に何も変わらないだろう。
情報時代はアイデア勝負、そういう時代に休みも取れず、会社と家を往復させられている人から何が生まれようか。

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サヨナラ、学校化社会 by 上野千鶴子

4 学校は授業で勝負せよ

■オリジナリティとは「異見」のこと

望ましい人的資本とはなにか?
あけすけに言えば「生産性が高い」ということです。
これまでの生産性とは労働生産性のことでした。
何時間働いたらどれだけの生産物を生むかという、量で計られる生産性のことです。
ところが、今日の情報資本主義のもとでは、情報生産性こそが重要です。

情報生産性の尺度は、時間ではなくなりました。
ある人が五時間かけて思いついたことを別の人が五分で思いついたら、どちらの価値が上か。
五時間かけたほうが上だとはいえません。
また、同じ人が五分で思いついたことと五時間かかって考えついたこととでは、五時間かかったほうが価値が上か。
それも時間では測れません。
私は学生に問いを投げて、五分間考えて答えが出てこなかったら、もう考えるのを止めろと言います。
五分で出てこない答えは、もう答えではない。
五時間かけたからといって、優れた答えが出てくるとはかぎらない。
五分が勝負だ、と言っています。

これからのグローバル・マーケットで人的資本を問題にするとすれば、情報生産性-べつの言葉で付加価値生産性とも言いますが-の高い人材を生みだすしかありません。
付加価値生産とは、既存のものにそれにはないものをつけ加えるという能力のことで、これまであるものを踏襲して再生産するだけでは、付加価値は生まれません。

情報というものは、すでにあるものとの違い、既存のものとの「距離」のなかに生まれます。
これを「オリジナリティ」と呼びます。
私は「いけんがありませんか」というときには、かならず「異見」と書くようにしています。
異なる見解というわけです。
ご「異見」というのは、その人のオリジナリティのことです。
「異見」というのは、あなたと私はここが違う、という距離のことだからです。

オリジナリティとは、現にあるものとその人との距離を指します。
したがって、オリジナリティを獲得するためには、現になにがあるかを知ることが大切です。
これを別名、教養と言います。
だから教養はないよりあったほうがよい。
ただし、教養だけがあってもオリジナリティが生まれるとはかぎりません。

東大生を見ていてつくづく思うのは、最初の章で述べたように、その同調する能力の高さです。
「以上の文章を何字以内に要約しなさい」というような能力を十八年間、磨き抜いてきただけの、オリジナリティのない人びとです。
そんを高い同調性をもった人材を組織的・制度的に訓練し、育て、選抜し、かつ社会に送りだしてきたのが、これまでの日本社会でした。
そのためにひじょうに莫大な社会的コストと、当事者の耐えがたいストレスというコストを、払いつづけてきたのです。

ところが、その結果、生みだされた価値とはなんでしょうか。
「次代を担う」という言い方はあまりしたくはありませんが、情報生産性の高い人材が生みだされてきたかというと、私は首をかしげざるをえません。
東大の学生を見ていてしみじみ思います。
情報生産性の高い、オリジナリティのある、つまり人と異を唱えることが多く、カドが立っていたためにうまく適応できなかった人材は、この門をくぐるまえにとっくに淘汰されて、私のまえには現れなかったのだろうな、と。

■「人と違ってよい」となぜ言えない

しかし、そうやって育てあげ、選抜しぬいた学校エリートが、実際に使いものになるかという正念場がきています。
小泉構造改革なるものに私はたいした期待をもちあわせませんが、それでも人材育成ということを構造改革に関係する経済人たちが公然と口にしはじめたことには、感慨を覚えざるをえません。

次世代型の情報生産性の高い人材育成をしようと思ったら、現在の教育カリキュラムでは不可能だと、みんな知っています。
知っていてこれまで口に出さなかった。
従来型の人材で社会は十分、機能していたし、企業はそれを採用してきました。
右向けと言ったら右を向く人材を好んで採ってきた。

ところが、ことここに及んでベンチャー型の人材-右向けと言ったら左向くとか、人がやったことないことを前例がないからやりたがる、そんな人材を採りたいと望んだところで、十八年かけて同調型の人材をとことん絞りぬいてつくりあげるいまの教育カリキュラムのなかから、「異見」というオリジナリティを生みだすような人材が育つとはとても思えません。

私はこれを、日本人の集団主義とか「和」の思想などといった、国民性論や文化本質主義で論ずるつもりはまったくありません。
たとえDNAが百パーセント日本人でも、アメリカで生まれアメリカ式に育てれば、頭のなかはアメリカ人になります。
これは教育システムの問題です。

ひじょうに簡単にいうと、人と違うことを言うたびに頭を打たれ、足を引っ張られるような経験を十八年間やってくるか、それとも人と違うことを言うたびに「それはおもしろいね、よくやったね」と、頭を撫で、手を持ってひっぱりあげられる経験をするかの差なのです。
ひとえにしかけしだいだと思います。
そのしかけをつくってこなかったことが、もしくはまったく正反対のしかけをつくってしまったことが問題なのです。

情報生産性が高い人材は、どうしたら生みだせるのか。情報とは差異からしか発生しません。
そのとき、落差のある生活世界とか価値体系をどれだけ知っていて、自分のなかにその落差のあるシステムをどこまで取りこんでいるかが問われます。
落差のない生活をやっている人のなかには、価値も情報も発生しません。
二十四時間、会社べったりで働いている人には、会社的価値しかないのです。

私は、女の人は壮絶な落差のある生活を送っていると思います。
赤ん坊とは、石器時代から変わらない存在です。
おぎゃあと生まれた赤ん坊には、二十一世紀も石器時代もありません。
だから子どもを育てているキャリア・ウーマンは、二十一世紀のハイテク・オフィス空間と石器時代とを、一日のあいだに往復していることになります。
全身が引き裂かれるような価値と時間の落差を生きている。
その落差が情報を生むのです。
そういう落差をもたない人からは、情報は発生しない。

教育に引き戻していえば、しかけはいくらだってできます。
教室という場にできるだけ異質性の高い人たちの集団をつくりだす。
クラスは同一年齢でなくてもいいし、外国人もハンディキャップのある子も、みんないっしょに学べばいい。
人と違うことを言ったときには、その芽を摘むのではなくて褒めたらいい。
「すごいね、よく思いついたね」とおだてたらいい。
現にあるものとあなたとがどのように違うか、どう距離があるかということを許容する教育カリキュラムをつくればいいのです。
そういうカリキュラムを、日本の学校制度はもってきたでしょうか。
「人と違っていてもよい」と言ってきたでしょうか。

その前提になるのは、大人どうしが違っていてもよい、一枚岩でなくてもよいということです。
教師・父母・行政が一体となって連携して・・・そういうことを聞くと、私はゾッとします。
子どもたちはどこへ行っても、おなじ顔をした大人に向きあわされるのでしょうか。
大人の言い分はおたがいに違っていていい。
そのような異質性を抱えこまないシステムでは、情報生産性が逓減し、やがてグローバル・マーケットで淘汰されるに至るでしょう。

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